· 

白磁が頭から離れない病につき、治療してみた

庄村久喜が作り出す白磁作品:ストイックに磁器を制御し作り出した造形に、シルクのような光沢な独特な白磁釉薬をかけた作品。
白妙彩磁壺
庄村久喜の作品:纏うカタチのシリーズ。ろくろで作られたボディ外側に、磁器粘土のペーストをたっぷりと纏わせた作品。偶然性があるテクスチャと、制御されて作られたボディが交錯するライブ感がある造形。
茶盌-白を纏う-

現在、いろんな作品を同時進行で制作中。

 

頭の中はまるで渋滞中の高速道路、思考があちこちでクラクション鳴らしてます。

なので、ちょっと頭の整理整頓を兼ねて、ここに書き出してみることにしました。

 

これまでのブログ内容と若干かぶってるかもしれませんが、

あくまでこれは、私のための「脳内お片付け日記」で、思考の断捨離です。

 

 

きっと後で読み返して「何言ってんだ自分…」ってなる気もするけど、

まあそれも含めて作家のリアルということで・・・。

 

それでは、書き殴りしていこう。

 

 

・・・・・・

 

幼いころ、父からもらった磁器粘土でよく遊んでいました。

といっても、特別なことをしていたわけではなく、ただのおこちゃま粘土遊びです。

何を作っていたのか、まったく覚えていません。

でも、手のひらに伝わる磁器粘土の滑らかさ、冷たさ、そして白さ。

そんな感覚だけが、なぜか今も記憶の奥に残っています。

 

やがて陶芸家となり制作の方向性に迷いが生まれた時、ふと思い出したのがその感触でした。

原点に立ち返るように、もう一度あの白くて柔らかい粘土と向き合ってみようと思ったのです。

そうして始まったのが、釉薬さえも磁器粘土100%で作るという、ある意味無謀な試みでした。

磁器粘土でかたちをつくり、その上に磁器粘土だけで作った釉薬をかけて焼く。

すると、思いがけず、シルクのようにやさしく光る白が現れました。

それは、素材に真正面から向き合ったからこそ、素材が返してくれたような不思議なご褒美だった。

 

磁器粘土をろくろで扱うということは制御の連続である。

有田で学んだ高度なろくろ技術を地道な修行で身につけ、ストイックに粘土を攻めるように制御していく。

そうして削ぎ落とすように仕上げたラインは、私の白磁の持つ透明感のある白と絶妙にマッチしていた。

しかし、作品が美しく仕上がっていく一方で、集中力高めでストイックに攻める作業にストレスフルとなっていた。

しかも私は、同じものを一生かけて作り続けることができない病。。 ・・・病ではなく性格か・・

とはいえ、素材として磁器に向き合うという芯の部分は揺らぎがない。

そんな中でまた一つ、新たな壁を感じるようになっていた。

 

唯一無二の白磁という素材を手にしているのに表現が乏しい。

最高の武器を持っているのに戦い方が凡庸なのだ。

しかもその武器のすごさは、あまりにマニアックで伝わりにくい。

人の心を動かすのは武器そのものではなく、その使い方──戦い方である。

最高の粘土、最高の釉薬、最高の絵の具

それらは作品の「裏付け」にはなるが、それだけでは人の心は動かせない。

感動を生むのはやはり“表現”なのだ。

もちろん、唯一無二の白磁の色は感動のきっかけにはなり得る

しかし白磁は白い。白い粘土を焼いているのだから当たり前だ。

だからこそ、白という色に過剰な意味を持たせすぎると表現としての限界が見えてくる。

言い換えれば、私の表現は、素材の良さに依存した“普通”の表現だったのだ!!!

 

そこまで言わなくてもねぇ・・・と自分を擁護したくなってきた。。(笑)

 

そうして辿り着いたのが「纏うカタチ」という新しい表現方法です。

多くの白磁が彫ったり削ったりといった“引き算”での造形なのに対し、

「纏うカタチ」はろくろで精密につくったかたちに、さらに磁器粘土のペーストを纏わせる“足し算”での造形。

たっぷりとまとわせることで形もテクスチャも変わり偶然性を含んだ唯一の表情が生まれる。

制御と偶然がせめぎ合う――それがこの表現の面白さであり可能性だと感じている。

 

この表現を手に入れたことで、もう一つ変化があった。

それまでは白磁に強くこだわっていました。

白い磁器粘土の魅力を引き出すには、やはり白で勝負するべきだと思っていたのです。

でも、纏うという表現は色に制限されません。黒でも、青でもいい。ピンクは・・少し考よう。。。

ただし、使う素材は磁器。ここは絶対にぶれません。

だから私は、“カラーバリエーション”として色を使っているのではなく、

素材に意味を持たせた表現として色を使えるようになると思っている。それが、とてもうれしかった。

 

そしてまた、ひとつ課題が出てきました。

 

私は作品をつくっているけれど、それは果たして本当に“作品”なのか?

誰かのために、誰かが使うことを想定してつくったものは、はたして“作品”と呼べるのだろうか?

 

その答えは、もう見えています。あとはそれを、かたちにするだけ。

たぶん、また大きな壁にぶつかるのだろう。

でも、そうした問いかけと挑戦の繰り返しこそが、“陶芸屋”ではなく“陶芸家”の生き方なのだと思うのです。

某政治家の名言を借りるなら(笑)

 

 

私の表現のすべては、磁器粘土という素材への深いリスペクトから生まれています。

釉薬に使ったことで生まれたシルクのような白。その美しさは磁器粘土に正面から向き合ったからこそ現れたものでした。

「纏うカタチ」は、磁器粘土が“かたちをつくる素材”であるという本質に立ち返ることから生まれました。

アプローチは異なっても出発点はいつも同じです。

素材に耳を澄ましその声を聴くこと。

そこに私の芯がある。

 

さて、 脳内の容量も整理され思考の保管もできた。

作業に戻ります。