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無作為??いや、作為でいこう!!

脳内会議です。

 

今日の議題は、「無欲、無作為という言葉が嫌い」ということ。

 

何で嫌いかって?


だって、そこには「何もしないこと」「求めないこと」が美徳かのような響きがあるじゃない。
まるで、意図することや願うことが悪みたいに扱われている。そんなのムズムズする。
人は意図し、求め、動く生きものだ。

その衝動がなければ、何かを生み出すことも、変化を起こすこともできない。

 

ろくろを回していると、無欲なんて言葉はすぐに遠のく。
土は正直だ。こちらの迷いやためらいをすぐに察して、形がぼやける。
「ここで止めよう」「もう少し押さえよう」──その判断の連続こそが、形を導いていく。
それは作為であり、意志そのものだ。
無作為のままでは、ただの泥の塊ができるだけ。

火に入れたら崩れて、土にまで「お前、何してんの?」と突っ込まれそうだ。

 

「自然に任せる」という言葉も、どこか都合のいい響きがある。
自然は優しくない。雨も風も火も土も、全部が意志をもって暴れている。
だから、人が何かをつくるとき、「任せる」だけでは勝てない。

手を伸ばし、抗い、時に折れながら、やっと自然の一部になれる。

…まあ、自然は基本上から目線だけど。

 

私にとっての「欲」は、ただの願望ではない。
もっと美しく、もっと強く、もっと静かに──
そんな思いが、形を生む。
その欲を失ったら、手は止まってしまう。
「欲がある」ということは、生きているということだ。

 

そして「作為」もまた、私にとっては息づかいのようなもの。
意図を込めることで、形は個性を得る。
その痕跡を完全に消してしまえば、誰の手でもない無味な器になる。
作為とは、存在の証だ。
それを否定してしまったら、何のためにつくるのか、わからなくなる。

 

ただし、欲や作為が前に出すぎると、土はすぐに反発する。
押さえつけすぎず、放り出しすぎず、
その微妙な均衡を保ちながら、形と向き合う。
そのあわいにこそ、ほんとうの「自然」があるのではないだろうか。
そこには意図もあり、偶然もある。
どちらが欠けても、命のある形にはならない。

 

だから私は、無欲でも無作為でもなくていい。
むしろ、それらの正反対の場所に、自分の「自然」を見つけたい。
欲を抱え、意志をもって、手を動かす。
その中にこそ、私なりの静けさと真実がある。

 

 

作品は、そんな私の心の映し鏡なのかもね。
焼き上がったその白の奥に、ほんのわずかでも、
欲の熱と、作為の跡が残っていてほしいと思う。
それは不完全な美かもしれない。
けれど、その不完全さこそが、人の手で生まれた証なのです。

 

上手くまとまったようなので、寝ます。。。