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飯碗、出す?出さない??

庄村久喜が創り出す白磁の飯碗。外側と内側の釉薬の光沢が異なる。シンプルでスタイリッシュな造形
                     白妙磁飯碗

 

「ごはん茶碗って、作っているの??」

 

いや、作ってるよ。

依頼も受けるし、自分でも楽しんで作る。でも、個展ではほとんど出さない。

 

なぜ出さない?をひも解いていこうと思う。

 

まず、飯碗って日常すぎる。

手に馴染む、口に近い、すくいやすい。形も装飾も制約だらけ。自由度が低い。

鉢や皿なら形で遊べるのに、飯碗は遊ぶ余裕がほとんどない。

曲線ひとつ、厚みひとつ、口のかたちひとつ。全部、機能のために決まってしまう。

これ、かなりの制約だ。

 

それに、人は無意識に日常品を雑器として認識する。

飯碗を見ても、頭のどこかで「生活道具」として処理してしまう。

鑑賞対象?いや、まずご飯を入れるための器。自分でも手に取るとき、まず「使うもの」として考えている。

なんだか少し冷たい目線だな......でも正直な感覚だ。

 

でも、飯碗作るのは面白い。小さい中に思いを込められる。

微妙な曲線、手触り、厚み。ほんのわずかな違いで手に持った感覚が変わる。

ご飯をすくったときの口当たりまで、想像しながら作る。

依頼されれば全力で作る。作っている間は、飯碗も立派な「作品」だと思う。

でも、個展では……目立たない。

 

うん、力負けする。鉢や皿には勝てない....。

 

 

結論!

 

飯碗は生活に近すぎる。だから個展では控えめ。でも、それでいい。

雑器でもいい。むしろ、この「生活との距離感」が面白い。

人が気づかないところで力を発揮する.....そんな器が、飯碗だと思う。

目立たなくても、使う人の手の中で確かに存在する。

それで十分だと思う。