これまで、自分の表現について何度も言葉にしてきた。
その都度、間違ったことは言っていないはずなのに、時間が経つと、どこかに引っかかりが生まれる。
言い足りていないわけでも、言い過ぎているわけでもない。
ただ、わずかにズレている。そのズレを放置できない。
だからまた、言葉を探し直す。
それは迷っているからではない。
むしろ逆で、見えているものの輪郭がはっきりしてくるほど、言葉の精度が追いつかなくなるからだ。
作ることは、形にすることだが、同時に、見えているものを言語化する行為でもある。
そして、そのどちらも中途半端にはできない。
私の表現は、しばしば対比で語られる。
静かな白磁と、荒々しい造形。
整えられたものと、解放されたもの。
確かに見た目は真逆だ。
しかし自分の中では、その二つは分かれていない。
どちらも、同じところから始まっている。
幼い頃、磁器という素材に初めて触れたときの感覚。
それがすべての出発点だ。
触れた瞬間、空気が静まるような感覚があった。
余計なものが削ぎ落とされていくような、澄んだ静けさ。
同時に、心は確かに動いていた。
理由もなく、高揚するような、説明のつかない感覚。
静けさと高揚。
この二つは矛盾していなかった。
むしろ、その両方が同時に立ち上がっていた。
そのときの感覚が、いまも変わらず、自分の中にある。
制作の中で、私は何かを「加えている」という感覚をあまり持たない。
むしろ、余計なものを取り除いていく感覚に近い。
ろくろの上で形を整えるとき、目指しているのは美しさではない。
美しさは結果として現れるものであって、最初からそこにあるわけではない。
素材に触れ、わずかな歪みや重心のズレ、手の圧の違いを感じ取りながら、
その中にすでに潜んでいる均衡を探る。
均整とは、外から与えるものではなく、もともと内側にあるものだ。
それに対して、こちらがどこまで敏感でいられるか。
どこまで余計な操作をせずに済むか。
そこに、すべてがかかっている。
一方で、整えることとはまったく逆の方向に進むこともある。
素材を制御せず、あえて解放する。
形を保とうとする力と、それを崩そうとする力がせめぎ合う中で、
表面に現れてくるものをそのまま受け入れていく。
そこには、計算では出せない揺らぎや、偶然性が含まれる。
しかしそれを「偶然」と片付けてしまうのは違う。
制御を手放すこともまた、選択であり、判断だ。
整えるときと同じように、そこでも私は素材に触れている。
ただ、引き出している側面が違うだけだ。
抑えられていた力、内側に蓄えられていた圧、
そういったものが表に現れてくるとき、そこには強い存在感が生まれる。
それを私は衝動と呼んでいる。
だがそれは、壊しているのではない。
むしろ、素材が本来持っている力に、より近づいている状態だ。
整えることと、解放すること。
一見すると正反対の行為だが、やっていることは同じだ。
素材に触れたときに生まれる感覚を、どこまで正確にすくい上げられるか。
その一点に集約される。
そこに意図はある。そして、作為もある。
私は人間であり、作為から逃れることはできない。
むしろ、その作為こそが判断を生み、表現を決定づける。
だからこそ問われるのは、作為の有無ではなく、
どこまでそれを通すのか、どこで止めるのか、その精度だ。
作ろうとすればするほど、ズレていく。
うまくやろうとすればするほど、表面的になる。
必要なのは、技術ではなく感度だ。
そして、その感度を裏打ちするための技術だ。
順番を間違えれば、すべてが崩れる。
磁器という素材は、極めて静かな表情を持っている。
同時に、その内側には強い力を孕んでいる。
焼成を経て初めて現れる緊張感、わずかな歪みで崩れる繊細さ、それでもなお保たれる強度。
相反する要素を同時に持っている。
だからこそ、そこに触れたとき、人の内側もまた揺れる。
静かになるのか、解放されるのか。
それは作品によって決まるものではない。
見る側の状態によって変わる。
私の作品は、何かを伝えるためのものではない。
何かを感じさせるためのものでもない。
ただ、素材に触れたときに起こる変化を、形として提示しているに過ぎない。
そこに意味を見出すかどうかは、受け取る側に委ねられている。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
最初に触れたあのときから、素材の中にあるものは変わっていない。
初めて磁器の土に触れた、まだ幼い頃のあの感覚から。
変わったのは、それをどこまで正確に捉えられるか、
そしてどこまで余計なことをせずに形にできるか。
その精度だけだ。
私はつくっているのではない。引き出しているだけだ。

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