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アートの価値は、この先どこへ向かっていくのだろうか

最近、よく考える。

 

今の時代において、アートとは何なのだろうか。

そしてこの先、何が価値として残っていくのだろうか、と。

 

ずっと昔から、人は何かに価値を託してきたのだと思う。
建物であったり、彫刻であったり、絵画であったり、工芸であったり。
あるいは、肖像画や銅像のように、自分の姿を形として残すことそのものに意味があった時代もあっただろう。

 

少なくとも、現在のように娯楽も消費も無数にある時代ではなかった。
何にお金を使うのか。
何に憧れるのか。
何を豊かさとして受け取るのか。
そういうものの向かう先は、今よりずっと限られていたはずだ。

 

だからこそ、形あるものに価値が集まった。
ただ便利だからではなく、ただ飾るためだけでもなく、

そこにその人の豊かさや思想、美意識が託されていたのだと思う。

 

それが今はどうだろう。

 

楽しめるものが多すぎる。
時間の使い方も、お金の使い方も、気持ちの向け先も、あまりにも増えた。
スマホ一つあれば、いくらでも時間は過ぎていく。
映像も、音楽も、ゲームも、旅行も、ブランドも、食も、体験もある。
デジタルの中にも、いくらでも価値らしきものはある。

 

そうなると、アートに手を伸ばす人が相対的に少なくなっていくのも、不思議ではないと思う。

 

アートが消えたわけではない。
むしろ、アートという言葉そのものは、昔より広く使われるようになったのかもしれない。
ただその一方で、何が本当に価値なのか、何を見て人は心を動かされるのか、

そういう根っこの部分は、逆に曖昧になってきている気もする。

 

なんとなく、かっこいい。
なんとなく、今っぽい。
なんとなく、おしゃれ。
なんとなく、流行っている。

 

そういうなんとなくで価値が決まっていく。
昔からそういう側面はあったのだと思う。
ただ今は、そのなんとなくがあまりにも速く広がり、速く消費される。
そこに私は少し怖さを感じる。

 

さらに、今はAIまで出てきた。

 

AIが作る画像や表現は、これからもっと進化していくだろう。
すでに、ぱっと見で強いもの、雰囲気のあるもの、それっぽく美しいものは、

かなりの精度で生み出せるようになっている。
そうなった時に、アートとは何かという問いは、さらに曖昧になっていく気がする。

 

見た目がよければいいのか。
新しそうに見えればいいのか。
人の感情を一瞬動かせば、それでいいのか。
それとも、その奥にあるものまで含めて、やはりアートなのか。

 

私の中でも、まだはっきり答えは出ていない。
ただ、こういう時代になればなるほど、逆に見えてくるものもある気がしている。

 

私は陶芸をしている。

 

土に触れて、ろくろを挽いて、形を探って、乾燥を見ながら手を入れて、

釉薬をかけて、焼いて、その上がりを受け止める。
当たり前だが、思い通りにいかないことは多い。
というより、思い通りにいかないことの方が多い。

 

形が決まったと思っても、乾燥で変わる。
ここだと思って手を入れても、少しの差で崩れる。
釉薬も、狙い通りに出る時ばかりではない。
焼いてみないと分からないこともある。
そういう、どうにもならない部分をたくさん含んだ上で、ようやく一つのものになる。

 

効率だけで言えば、ずいぶん面倒なことをしていると思う。
もっと速く、もっと簡単に、もっとそれっぽく見せる方法はいくらでもある時代なのだから。

 

でも、陶芸作品というのは、そういうものではない気がする。
少なくとも私にとっては、そうではない。

 

ただ形ができれば終わりではない。
ただ使えればいいわけでもない。
ただ見た目がきれいならいいわけでもない。

 

その素材にどう向き合ったのか。
どこまで攻めて、どこで止めたのか。
どこまで私が決めて、どこから先を受け入れたのか。
そういうものが、完成した作品の中に、見える見えないは別として、確かに残っていく気がしている。

 

特に陶芸作品は、画像だけでは分からない部分が大きい。
質感も、重さも、光の返り方も、空気の含み方も、実際に目の前にして初めて伝わることが多い。
白磁であればなおさら、ただ白いだけでは終わらない。
その白の中にあるわずかな差や、光沢の出方や、面の緊張感のようなものは、

簡単には置き換えがきかないと思っている。

 

だからこそ、これからの時代ほど、人が作る意味はむしろ問われるのだと思う。
何でも速く作れる。
何でもそれっぽく見せられる。
何でも整って見せられる。
そういう時代だからこそ、時間がかかること、身体を通してしかできないこと、

失敗を引き受けながら形にしていくことの価値は、逆にはっきりしてくるのではないか。

 

もちろん、世の中の大半はそこまで見ないのかもしれない。
見た目が分かりやすくて、すぐ反応できて、説明がいらないものの方が強い場面は多い。
それは現実としてあると思う。

 

でも、だからといって、そこに全部を合わせてしまったら、残るものまで薄くなる。
軽く消費されることを前提にして作ったものは、やはりどこかで軽くなる。
それは見た目では取り繕えても、奥の方で違いが出る気がする。

 

アートとは何か。
陶芸作品の価値とは何か。

 

簡単には言えない。
私もまだ、考えている途中だ・・・・・。

 

ただ少なくとも、なんとなくかっこいいものを作りたいわけではない。
ただ今っぽく見えるものを作りたいわけでもない。
ましてや、一瞬だけ目を引いて、それで終わるものを目指したいわけでもない。

 

素材に向き合った時間や、手の痕跡や、迷いながら選んだ形。
そういうものがちゃんと残るもの。
見た目の奥に、その人がいたことが残るもの。
そういうものを、私は作りたいのだと思う。

 

この先、アートはもっと軽く消費されていくのかもしれない。
価値の基準も、さらに曖昧になっていくのかもしれない。

 

でもその一方で、本当に残るものは何かという問いは、

むしろ今まで以上にはっきりしていくのではないかとも思う。

 

便利なもの、速いもの、分かりやすいものが増えれば増えるほど、
それでもなお、人が時間をかけて作るものに何を見るのか。
そこに何を感じるのか。
何を価値として受け取るのか。

 

たぶん、これからのアートは、そこがより問われていくのだと思う。

 

そして陶芸もまた、同じなのだと思う。
ただ物を作るだけなら、もっと別のやり方はいくらでもある。
でも、それでもなお土に触れ、手を使い、焼いていく。
その遠さや不確かさまで含めて、なお残るものがあると信じるから、作るのだと思う。

 

 

私は、たぶんそこを見失いたくないのだと思う。