今日は窯を焚いています。
熊本での個展に向けた作品たちが、窯の中に入っている。
今回の窯には、以前から作っている静かで穏やかな白磁作品と、
一年前から作り始めた、エネルギッシュで動きのある作品、その両方が入っています。
窯に作品を詰め、火をつけた時点で、あとは神のみぞ知るです。
火をつけると、とりあえずひと段落します。
少し休憩している時に、ふと、今年の有田陶器市でお客様に言われたことを思い出しました。
「どうして、こんなに対極な作品を作っているのですか?」
その方が見ていたのは、白く静かな白磁の鉢でした。
繊細な陰影と、シルクのような柔らかな光沢を持った作品です。
けれど、そのすぐ近くには、まるで岩肌のような荒々しい作品も並んでいました。
磁器のペーストを纏わせ、氷壁や断層のような表情を持つ作品です。
確かに、初めて見る人からすると、不思議なのだと思います。
静かな作品と、荒々しい作品。
まるでクラシック音楽とロックくらい違う。
だから私は、その時こう答えました。
「でも、自分の中では、そこまで遠くないんです」と。
そもそも、子供の頃、最初に惹かれたのは、完成した陶芸作品ではなく、
工房に転がっていた磁器の原石や粘土でした。
石のように硬かったものが、砕かれ、水を含み、土になる。
そして、人の手で形を持ち、焼かれて、再び石のように変化していく。
その過程が、不思議でたまりませんでした。
白く、静かで、滑らかで、けれどどこか緊張感がある。
一方で、乾燥や重力によって、思いもよらない変化を見せる瞬間もある。
私は昔から、その両方に強く惹かれていたのだと思います。
以前は、自分でも不思議でした。
なぜ、静けさを追いかけながら、同時に、あんな衝動的な作品も作りたくなるのだろうと。
けれど最近、少しずつ分かってきた気がしています。
静かなものと、強いものは、対立していないのかもしれない。
むしろ、お互いがあることで、初めて成立しているのではないかと。
日本の古い文化には、そういう感覚があります。
茶室は静かです。
けれど、ただ穏やかな空間ではありません。
音が少ないからこそ、湯の音が響く。
余白が大きいからこそ、一輪の花が強く見える。
能もそうです。
大きく動かないからこそ、一歩に強い緊張感が生まれる。
静かな能面も、光や角度によって、悲しみにも、怒りにも見える。
書もそうです。
真っ白な余白があるからこそ、一筆が生きる。
静けさは、弱さではない。
むしろ、内側に強い力を持っている。
そして逆に、本当に強いものには、静けさが必要なのだと思います。
もし全てが激しければ、疲れるよ。。。
だから私は、荒々しい作品の中にも、どこかに白を残したくなる。
呼吸できる場所を作りたくなる。
そう考えていくと、自分の中では、静かな作品も、荒々しい作品も、対極のものではないのだと思います。
静かな白にも、内側には強い力がある。
荒々しい表情の中にも、どこか静けさを求めている。
その両方に惹かれる感覚は、子供の頃に触っていた磁器という素材の中に、最初から存在していたものだった。
だから自分は、自然とこの二つを作っているのだと思います。
…とはいえ、まずはしっかり焼き上がってくれないと始まりません。
また窯場に戻ろうと思います。

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