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ニュースの顔をした感情の置き場

窯焚きの準備をしている。

 

作品を一つずつ確認しながら、窯の中へ積んでいく。
私の白磁釉薬は繊細なので、窯詰めは、私の制作工程の中でもかなり気を遣う作業だ。

 

あと少しで積み終わるところまで来たので、ひと段落つけることにした。
少し休憩しようと思い、スマホを手に取る。

 

気になっていたワールドカップの結果を見ようと思い、ヤフーニュースを開いた。

 

知りたかったのは、試合の結果だった。
どの国が勝ったのか。
どんな試合だったのか。
ただ、それを少し確認するつもりだった。

 

ヤフーニュースは、便利だと思うことが多い。

 

時事ニュース、天気、災害情報、スポーツの結果。
瞬時に知りたいことが、すぐに目に入る。
現代において、そうした情報の速さには確かに価値がある。

 

けれど一方で、いつも強い違和感を覚える場所がある。
それは、ニュースという枠の中に紛れ込んでいる、有名人や著名人をめぐるゴシップ記事だ。

 

ゴシップ雑誌やゴシップ新聞であれば、読む側も最初から構えている。
「ああ、そういう媒体の記事だな」
「話半分で見ておこう」
そういう心のフィルターが自然に働く。

 

しかし、大きなニュースサイトの中に置かれると少し違ってくる。
政治、災害、社会問題、スポーツニュースと同じ画面の中に、

有名人や著名人の私生活や人間関係を煽るような記事が並ぶ。

 

すると、本来は軽く聞き流すような内容まで、どこか“ニュース”の顔をして見えてしまう。

 

さらに厄介なのは、そこにコメント欄があることだと思う。

 

記事自体も、よく見ると責任の所在が曖昧なものが多い。
「関係者によると」
「波紋を呼びそうだ」
「批判の声もある」
そんな言葉で、断定は避けながら、読む側の感情だけを揺さぶっていく。

 

そして最後に、何かしらのマイナスの含みを残して、記事は終わる。
火種だけを置いて、書き手はその場を離れるような感じがする。

 

その後に続くコメント欄を見ると、さらに気持ちが沈むことがある。
個々の怒り、不満、正義感、嫉妬のようなものが、そこに一気に流れ込んでいる。

 

もちろん、人にはそれぞれ意見がある。
感じ方も自由だ。
けれど、見えない個人の怒りがコメント欄によって可視化され、

それをまた別の誰かが読むことで、さらに感情が増幅していく。

 

一人の小さな怒りが、集団の空気になる。
そしてその空気が、また新しい怒りを呼び込む。

 

それを見ていると、まるで人間の心理状態の実験を見せられているような気持ちになる。
正直、とても気持ちが悪い。

 

問題は、ゴシップが存在することそのものではない。
昔から噂話はあったし、人は他人の話に関心を持つ生き物だと思う。

 

けれど、それが「ニュース」という顔をして置かれ、さらにコメント欄によって怒りや

批判が増幅される構造には、かなり危うさを感じる。

 

読む側は、自分でしっかりとふるいにかけなければいけない。
これは本当に知るべきことなのか。
自分の生活や仕事に必要な情報なのか。
それとも、ただ感情を刺激されているだけなのか。

 

今の時代、情報を得る力だけでは足りない。
情報を選び取る力。
そして、他人の怒りに巻き込まれない力が必要なのだと思う。

 

コメント欄に並ぶ言葉は、世の中の総意ではない。
そこにあるのは、感情が集まりやすい場所に集まった、声の大きな一部でしかない。

 

それを“世間の声”だと思い込むと、自分の感覚まで濁ってしまう。

 

便利なものには、たいてい毒も混ざっている。
ニュースサイトも同じだと思う。

 

大切なのは、すべてを拒むことではない。
必要な情報は受け取る。
けれど、感情を煽るだけの記事やコメント欄には、距離を置く。

 

情報を見る目も、作品を見る目も、結局は同じかもしれない。
表面にある言葉や空気に流されず、自分の中で静かに見極めること。

 

それができなければ、知らないうちに、

誰かに煽られた怒りを自分の考えだと思い込んでしまう。

 

自分の感覚だけは、自分のものとして持っていたい。

 

そう自分に言い聞かせて、ブログに思いを綴り、窯詰めを再開します。
明日は窯焚きの予定です。