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継いだのではなく、引き受け直した

私は子どもの頃、有田焼や陶芸というものが、あまり好きではありませんでした。

 

正確に言えば、土や磁器そのものが嫌いだったのではありません。
「家業を継ぐもの」として目の前に置かれている陶芸が、とても重く感じられたのだと思います。

 

明治17年から続く窯元の家に生まれたこと。

周囲から当然のように、その先に自分がいると思われていたこと。

 

ただ不思議なことに、両親から「継ぎなさい」と言われた記憶はありません。

 

その重さは、両親から直接与えられたものではなく、家の歴史や周囲の空気、

そして自分自身の中で大きくしていたものだったのかもしれません。

 

それでも子どもの私にとっては、誇りというよりも、どこか逃げ場のないもののように感じていました。

 

けれど、何かを作ること自体は好きでした。

絵を描くこと。漫画の物語に影響を受け、自分なりに登場人物や世界を想像し漫画を描くこと。

学校の工作で、人と同じものではなく、少し違うものを作ること。

 

そして何より、今の私の原点には、子どもの頃の粘土遊びがあります。

 

まだ陶芸という仕事も、有田焼という伝統も、家業という重さも知らない頃。

手の中の粘土を押し、伸ばし、丸め、形を変えていく。

 

やわらかく、形の定まらないものが、手の動きひとつで別の姿へ変わっていく。

ただの塊だったものが、器のようにも、動物のようにも、見たことのない何かのようにもなっていく。

 

その素材の形態変化に、子どもの私は強く惹かれていたのだと思います。

 

そこには、誰かに評価されるためでも、何かを継ぐためでもない、純粋な驚きがありました。

 

けれど、その感覚が陶芸と素直に結びつくことは、当時の私にはありませんでした。

 

陶芸は、どこか「自分で選ぶもの」ではなく、「最初から決められているもの」のように感じていたからです。

だからこそ、有田焼という言葉も、家業という言葉も、素直には受け止められませんでした。

 

一方で、ほかにどうしてもやりたい仕事があったわけでもありません。

 

仕事帰りに赤ちょうちんで一杯やるような大人の日常に、サザエさんを観てなんとなく憧れたこともあります(笑)

ゲーマーだった小学生だった頃、ゲームのキャラクターや物語を考える人たちを、すごいと思ったこともあります。

 

けれど、今のように簡単に情報へ辿り着ける時代ではありませんでした。

田舎で育ち、視野も狭く、自分の可能性を具体的に探す術も持っていませんでした。

 

結局、私は流されるように家業の道へ入りました。

 

それを美談にするつもりはありません。若い頃の自分には甘さもあったと思います。楽な方へ流れた部分もあったと思います。

自分の人生を、自分の手で切り拓く強さが足りなかった時期もありました。

 

それでも今になって思うのは、あの頃の反発も、遠回りも、決して無駄ではなかったということです。

 

もし私が最初から有田焼を素直に受け入れ、何の疑問もなく家業を継いでいたなら、

今の表現には辿り着いていなかったかも・・・いや、確実にたどり着いていない。。

 

受け継いだものへの敬意。そこから抜け出したいという反発。そして、子どもの頃に感じた、素材が変化することへの純粋な驚き。

 

そのすべてが、時間をかけて私の中で混ざり合い、今の白磁へとつながっていきました。

 

静けさの中に、力をとどめる白。
衝動のままに、力を解き放つ白。

 

今の私の白磁には、その二つの表情があります。

 

それは、ただ伝統を守るために生まれたものではありません。また、伝統を否定するためだけに生まれたものでもありません。

 

守りたいものと、壊したいもの。
受け継いだものと、自分で掘り起こしたもの。

 

その両方があるからこそ、今の表現が生まれているのだと思います。

 

だから今、私は陶芸を自分の手で引き受け直しているのだと思います。

 

与えられたものとしての陶芸ではなく、自分で選び直したものとしての陶芸。

 

先祖から続いたものを、ただ守るだけではなく、自分の感覚でもう一度形にする。

 

私にとって今の制作は、そのようなものです。

 

今、私には二人の息子がいます。彼らには、それぞれが思う仕事に就いてほしいと思っています。

 

陶芸を継がなくてもいい。
有田焼を背負わなくてもいい。

 

私自身が、家業を継ぐことの見えない重さを感じてきたからこそ、

子どもたちには、自分の人生を自分で選んでほしいと思っています。

 

けれど、それは明治17年から続いてきた時間を否定するということではありません。

 

その時間は、私の中で消えることなく、

ものを作る手の記憶や、素材を見る眼差し、生き方の奥に残っています。

 

子どもたちに背負わせるのではなく、私自身の制作の中で引き受けていくものなのだと思います。

 

私が作っているものは、器や花器であると同時に、これまでの迷いや反発、

そして受け入れるまでの時間そのものなのかもしれません。

 

陶芸という大きな流れの中で、私は決して最初から素直な継承者ではありませんでした。

 

けれど今は、その不器用な遠回りさえも、自分の制作に必要だったのだと思っています。

 

私は作っているのではない。
あの時からずっと、素材の中にあるものを引き出そうとしているのだと思います。

 

このたびの熊本での個展では、そうした私の白磁の表現をご覧いただきます。

 

静けさの中に、力をとどめる白。
衝動のままに、力を解き放つ白。

 

明治17年から続く窯の時間と今の私自身の感覚が重なり合う作品たちを、会場でご覧いただけましたら幸いです。

 

庄村久喜展
白磁 − 静と動 −
会場:鶴屋百貨店 本館8階 美術
会期:7月8日(水)〜7月14日(火)

 

会期中は、全日程在廊予定です。
どうぞ多くの皆様にご高覧賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

                     花器 -氷衣-
                     花器 -氷衣-